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時節柄・・・ 以下、随分まえに訳してあったものだけど、出しそびれていた記事。 でどころ ドイツのオサレ系フットボールマガジン PLAYER 2006年4月号のクリンスマン特集 ヤフオクに出品されていたのを終了後に発見し、バックナンバーを購入しようとして果たせず。 とりあえず記事の一部はウェブサイトで読めます。 ここではレーヴさんがクリリンのアシスタントになったくだりを。つかそこしか読んでない。 ユルゲン・クリンスマンのドイツ代表監督就任が発表されたその朝 ヨアヒム・レーヴの携帯電話が鳴った。 彼はその時森までランニングに出かける途中だった。 バッグの中には水着も入っていた。走った後はプールで何本か泳ぐつもりだったのだ。 クリンスマンが代表監督になることは前日にビデオテックスで知っていた。 レーヴは最初クリンスマンは「fd21」のことで自分に電話してきたのかと思った。 「fd21」は彼らが数年前から携わっているフットボール基金のことだ。 クリンスマンがバイエルン・ミュンヘンでプレイしていた時、レーヴはVfBの監督だったから お互いのことは知っていた。 しかしより接近したのは2000年のコーチライセンス研修会でだった。 レーヴは既にコーチライセンスを持っていたが、それはスイスで取得したもので DFBがこれを認めなかったため参加していた。 それ以降彼らはこの研修会で発案したユースサッカープロジェクトの件で何度もコンタクトを 取っていた。しかしそれ以上の関わりはなかった。 「君と会いたいんだけど。」クリンスマンは話を切り出した。 レーヴは家族と一緒にコモ湖畔の友人宅に行く予定だったので 「その後で会うのはかまわないよ。もし君がまたドイツにもどってきているのなら。」と答えた。 「今日会いたいんだ。」クリンスマンは半ば強引に用件を伝えた。 「君に代表チームのアシスタントコーチをやってもらいたいんだ。 君はそれをイメージすることができるかい?」 彼はできた。 レーヴは森のランニングを切り上げ、急いで自宅に戻った。 「私はすぐにイタリアへ車を走らせました。」それは彼の妻をたいそう驚かせた。 その夜、クリンスマンとレーヴは彼のイタリアの友人をまじえて、何時間も彼らの考える サッカー、それの目指すもの、責任の分担について話し合った。 なぜならこれらがレーヴとって仕事をするにあたっての関心事の全てだったから。 「考えが合わない人間と一緒に仕事したって何も生み出すことはできません。 絶対無理な話ですから。」とレーヴは言う。 当時レーヴはフリーでどのクラブとも契約していなかった。 「もしブンデスリーガでコーチの仕事を見つけれなかったら、(たとえば)レアル・マドリー みたいなクラブで自分の考えを曲げて仕事するよりレジョナルリーガ(3部リーグ)で 仕事するほうがいいと思っていました。」 彼らの間には共通の考えと目的があった。クリンスマンからのオファーは充分に魅力的だった。 クリンスマンはレーヴが自由に何をやってもいいと確約した。 彼はコーチとしての経験をもつレーヴの助けを必要としていた。 レーヴの知識を享受し、彼から学びたいと思っていた。 「今から家に帰るよ。妻と話し合わなければ。2日時間をくれないか? こういうことはすぐに決めてはいけないと思う。」 しかしクリンスマンは答えを急がせた。 「明日までに決めてくれ。そうだな明日の夜までに。」 そしてレーヴはクリンスマンのオファーを了承したのだった。 これが栗ナンパ@コモ湖の真相みたいです。 湖畔の別荘で栗にくどきたおされるレーヴさんの姿を想像して萌え...そこでは 暖炉が明々と燃えているのよね。愛の炎が...(実際は夏です。7月末) レーヴさんの話によれば、それまでそんなに二人は親しくはしてなかったらしいので まさに青天の霹靂だったんでしょう。栗的にはなんでレーヴさんだったのかしら?...
by n-elle
| 2006-12-22 03:50
| インタビューとか
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